山田 稔

山田稔

1953年 足利市生まれ 美学校出身
1980年 詩集「fore」
2007年 詩集「窓ひらく」
2014年 栃木県芸術祭 文芸賞受賞

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「私」と芸術行為の意味について
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生きてある自分についての「個別」という考え方がある。この考えは人間の肉体を尺度にして見た限りでの錯視だ。誤りといえば誤りなのだが、この錯視像は人間の活動を元気にする「みなもと」でもある。

山田稔も、そんな錯視像込みの肉体を働かせて絵や詩などを作っている。

作業をしている中でいつも思うのは、私の意志や意識とは別の深い知を肉体が駆使してくれるという感覚だ。それ故に、両者がお互いに敬意を持って認め合う事はなんら特別なスタンスではないと思っている。

しかし、残念ながら現在の知の世界では、肉体の知としての側面は別の名目によって語られるか、貶められた名詞でしか語られない。

現実的と称される思考では、様々な錯視像の物質化と価値化が大手を振っておりアートもそこに呑み込まれている。

なんでもありに見えるが、近代以降の日本で芸術とかアートとか呼ばれている現象群と、人類史的な立ち位置で見て芸術に該当する現象とは、そうそう重なってはいないだろうと私は思っている。

作品が芸術である条件は幾つか有るが、その一つに鑑賞者が日常の物品からは受け取る事のない体験をするというのが有る。工芸的な美しさや善し悪しとは別に、比較という判断の壁に空いた穴を体感させる。それに伴い「感覚秩序の変更」が促される。現実感の更新と言ってもいいが、イデオロギー的なものではない。私の乗っている皿が、更に大きな皿に乗っている景色を見せるのだ。そんな事も作品が芸術である条件の一つだと、私は思っている。

話を初めに戻せば、私が「私らしく」に見えるのは或る皿の中の景色だ。皿の外へと目を注げば、自分が「私らしく」ではなく、過去から命が辿った幾筋もの道を辿りなおしているのが見える。そして、私が「個別」である事の意味は、以外にも命が始原において身につけている所作を、ここにいる私が行為として思い出している事、それが意味なのである。

限りなくただ生きている今に近づく芸術、作者としての私は、自分の芸術行為にそんな意味を見いだしている。
なお、私の意図に反してイデオロギー的な逸脱が起る場合もある。
だが、それは芸術の求める処ではない。 実現すべき作品の姿はその先にある
と思っている。                  2015/03/11